名古屋市と大須の町

 名古屋市の起源と大須観音が大正琴の話題とどのように結びついているのでしょうか?ちょっとした歴史情報がこの関係を明らかにしてくれているのではないでしょうか。

最初の歴史的要因:名古屋市の起源と大須観音

 将軍徳川家康は1600年に関ヶ原の戦いで豊臣軍を破り、1603年に江戸(現在の東京)に幕府を設立し、日本を統一しました。敗北したとはいえ、豊臣軍は当時大阪城で強力な力を有していました。将軍家康は清洲の住民を那古野山に移し、(※8)那古野(現在の名古屋)に大きな城を築きました。清洲地域は地理的に豊臣軍からの防御としてとても重要な場所でした。しかし、しばしば洪水の被害を受ける場所でした。これが、家康将軍が那古野山に新しい城を築いた理由で名古屋市の起源です。

 将軍家康は岐阜羽島の大須地域から(※9)大須観音を(名古屋市内の)日置村に移し、そして清洲の多くの寺院が日置村に強制的に移させられました。さらに家康はこの日置の地名を大須と変更しました。大須観音は人々の信仰の的で文化の中心でした。新しい町に住む気概として心のよりどころが必要で、その点で大須観音はうってつけでした。この寺にはおよそ900年も前から保管されている720の古文書がありました。大須観音の移動は清洲地区と同様に洪水から大須観音が保存している古文書を守るという口実からとも言われています。

戦前の名古屋城 大須観音と五重塔
※8.戦前の名古屋城

※9.大須観音と五重塔
明治14年5月12日撮影

※8&※9 長崎大学附属図書館蔵
http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/

歴史的要因の2番目:木工技術の市、名古屋

 将軍家康は財源として名古屋城主に木曽檜の管理権利を与えました。堀川と名付けられた運河が築城の物資を運ぶ為に掘られました。材木商と職人が日本中から名古屋に集められ、運河の両側に住みました。日置村の周りに大須観音や他の寺院を建立する為に寺院仏閣職人も多くの場所から集められました。当時からの木工技術は仏壇や家具、時計、弦楽器などに引き継がれ有名になりました。現在でも大須界隈には仏壇関連と家具屋が多くあり、堀川と新堀運河川沿いには、材木問屋と製材所が多くあります。こうした技術と社会的環境なしには大正琴は生まれ、育ちはしなかったであろうと言われています。

要因の1番目と2番目は“大須物語”大野一英著、1979年3月10日発刊より引用。

歴史的要因の3:江戸時代と明治時代の大須界隈の環境はどんなであったのだろうか?

 大須は寺院仏閣の門前町と言われています。江戸時代からは娯楽の、明治時代は名古屋の近代化の中心地でもありました。大須観音は大須の町の中心にあり、江戸時代から参拝の象徴でした。大須(名古屋)は地理的に江戸(東京)と大阪の真ん中でした。交通手段は貧弱で徒歩での移動が人々には一般的でした。江戸からの芸人は大阪には行かず大須迄でした。大阪からの芸人は東京には行かず大須迄でした。つまり大須で江戸と大阪の芸を同時に楽しむことが出来ました。このように大須は芸事の中心地にもなっていました。

 書籍“大須大福帳”著者平野豊二氏は106ページに大正琴創立者森田吾郎が育った(※10)森田屋旅館の場所を記しています。わかりやすく紹介すると「多くの売春婦が住んでいた日出町は大須観音の北に位置しており、北野天満宮も大須観音の北にあり、それは日出町の途中で、森田屋旅館は北野天満宮への途中の角にありました。」このあたりの道路は当時からほとんど変っていないことから森田吾郎が生まれ育った森田屋の場所は地図でほぼ正確にわかります。森田屋旅館は大須観音本堂からおよそ100メートル北でした。

森田屋の予想場所

※10.森田屋旅館の予想場所

 (※11)大須観音界隈には飲食や(※12)三味線や太鼓、笛、月琴の伴奏で長唄を唄ったりして楽しめる料亭や芝居小屋が多くありました。森田吾郎はこうした環境に住んでいました。彼は若いころからこうした音色を聞いていたであろうし、楽器の影響を受けていたかも知れません。森田吾郎は一弦琴や月琴の演奏が出来、そして明笛の名手でした。月琴も名手だったとも伝わっています。大須観音の境内や大須観音のまわりの娯楽小屋に出演しているプロの演奏家達は森田屋旅館に滞在していたかもしれません。もしそうであれば彼らから何らかの影響を受けていたことでしょう。

大正初期の仁王門通

※11.大正初期の仁王門通 中央:大須観音仁王門
仁王門は東向きから戦後の再建で現在の場所(南向き)となりました


※12.三味線 太鼓

明笛

月琴

 このように森田吾郎を取巻く音楽環境は大正琴発明に影響を与えたことでしょう。その結果、ピアノやオルガンと言った高価な楽器を手に入れることができない庶民に安価な楽器(大正琴)の開発となりました。こうしたことが“大須は大正琴の発祥の地”と結論づける所以です。