よくある大正琴の質問と回答(FAQ)

 

B.旅行前と後では森田の行動はどのようなものだったのか?
洋行 前に明笛?陽琴?の販売? 

 明治時代の海外へ行った人は主に移民の人達と少数のビジネスマンでした。しかし例外がありました。金持ちか大志を抱いて旅行した人達です。森田吾郎はこうした二つの条件を満たしていたに違い有りません。檜山陸朗は1990年、彼の著書“楽器産業”で次のように述べています。“彼(森田氏)は明笛の製造販売で大いに利益を得そして外国の楽器、音楽知識を学び、楽器と音楽知識を日本に紹介するこうした大志を抱いた“と言われている。

大須仁王門通の小間物店「大門屋(だいもんや)」店主早川徳三郎氏は1955年(昭和30年)ごろ書かれた彼の日記  ●3.“大須繁盛記”(仮名称)で興味ある別の意見を述べています。“明治22年、23年から30年頃店の一部を兄弟二人の印刷屋に貸していた。18歳〜19歳の弟は明笛が上手かった。その後,兄は南大津町で印刷業をしていたが、弟の消息が絶えていたら川口仁三郎を森田吾郎と改名して(※16)「陽琴」という金属線を張った新しい簡単な楽器の特許を取って発売した。これが非常に成功して財的にも余裕が出来たのであろう。あのロンドンへの洋行をし、帰ってくると今度は大正琴というのを発売した。”
◆一般的に日記はその人の為の物で他人に見せる為の物ではありません。従って、日記の内容のコメントは差し控えます。

陽琴
※16.陽琴
箱部内の印刷物に「専売特許第16021号考案制作師 森田五郎」とあり(吾郎は考案から使用か?)

 疑問があります。兄弟が大門屋で印刷店を経営していた頃に森田屋旅館は存在していたのであろうか? 大須では1892年(明治25年)に大須観音裏から出火があり、大須観音とその近郊134棟が焼失しました。森田屋旅館も又焼失した可能性があります。事実はわかりませんが森田吾郎は当時18歳でした。印刷屋を開業したのはこの大火で森田屋旅館が火災で焼失したからかも知れません。

 森田氏の海外旅行は◆1.日本の首相がスポンサーだったのではとも言われています。目的は西洋の音楽と楽器の勉強をし、帰国後に日本の文化に影響を与えることでした。当時の大須は娯楽の中心だけでなく政治運動の中心地でもあり、首相の伊藤博文も名古屋に何度も来ていましたのでお互いに合う機会があったかも知れません。

 森田氏の旅行の出発日に関してはいろいろな意見があります。第一は1897年(明治30年ごろ)です。第二は1899年(明治32年)で、それは彼が25歳の時と言われているからです。第三は1901年(明治34年)で第四は1906年(明治39年)です。海外滞在年数はおよそ2年から3年と言われています。

 大門屋の主人早川徳三郎氏の日記によればNo.4.1906年(明治39年)を否定出来ません。と言うのはある楽器年表には1900年(明治33年)「陽琴」発売とあり、約6年間は陽琴を売ってお金を貯めれば、洋行には十分です。
 森田吾郎はアメリカ経由でヨーロッパに渡ったと言われています。当時、ヨーロッパへは北米航路が東南アジア航路よりも普及していたので、アメリカ経由が正しいと思います。彼は旅行中多くの楽器を見たことでしょう。

 我々の目的は森田吾郎の出国、帰国日の調査とその決定ではないのでいろいろな説があることを紹介しました。

 ◆2.新聞記事では「森田吾郎は海外で学んだが、まわりの人々は彼を成功者とは認めなかった」とあります。「同じ名古屋在住の鈴木政吉は海外で勉強していないが、成功者で国産バイオリンの父であると認められていることを森田吾郎は知っていた」。彼の競争精神とヨーロッパ知識が大正琴の発明に影響したかも知れません。海外演奏旅行で得た利益を大正琴製造に投資したようです。