I - 1.大正琴の復興と普及はどんなでしたか?
戦後人々の生活は良くなっていきました。戦争が始まるまでに多くの名曲を作曲した作曲家古賀政男氏は、1959年人生劇場を作曲し、曲で大正琴を紹介しました。この哀愁を帯びた音色は人々に大正琴が普及していた時の古き良き日々を思い起こさせました。古賀氏のこの曲は永い間ヒットしていました。この曲が大正琴の復興をもたらしたと人々は言っています。1960年代の日本経済の成功は人々に幸せをもたらしました。TVの普及で多くの歌謡曲が国中に広がりました。
1970年代の中期(昭和50年)ごろ、大正琴の新たなブームが到来しました。電気洗濯機のような電気製品は主婦を家事から解放しました。そして人々は娯楽を楽しむ時間を多く持てるようになりました。ほとんどの中高年の女性は自分達で自由時間を楽しく過ごすことが可能でした。大正琴はこうした女性が集まり一緒に歌謡曲を演奏するのに適していました。こうした中高年の女性にとって大正琴で過ごす活動が流行となりました。
作曲家古賀氏は大正琴の愛好家に復活の機会を与えました。大正琴演奏を決してあきらめず捧げた演奏家と大正琴の製造を続けた製造者に感謝します。こうした演奏者や製造者が大正琴復活の核となったのでした。
大正琴の復活と広がりは1980年代中期からの大正琴教室の設立が原因です。1947年(昭和22年)から1949年(昭和24年)生まれの人達は“第一次ベビーブーマー”と呼ばれ、生徒として1950年代の中期から1960年代の後半までに大きな教育市場を形成しました。こうしたベビーブーマーは学校の音楽授業では各自個人持ちでハーモニカや他の簡単な楽器を購入しなければなりませんでした。小中学校では備品として楽器を揃えなければなりませんでした。エレキギターやフォークギターのブームは1960年代の終わりから1970年代の始めまで第一次ベビーブーマーに受け入れられ、楽器店も楽器工場同様繁栄しました。音楽需要はブームの終了とともに下降しました。時を同じくして、新聞は子どもの人口の減少と高齢者が増加すると発表しました。音楽ビジネスは主として子ども市場がベースでした。一部のギター工場、楽器問屋と楽器店のオーナー達は自分達の将来に不安を感じ、大正琴市場に参入しました。音楽市場でのビジネスチャンネルを利用して流会派と呼ばれていた伝統的な組織を参考にして新しい客を獲得するために自分たちの流派を設立しました。例えば流派の一つでは農協と協力し、婦人部の推薦を得て大正琴の生徒をつくりました。100以上の流会派が出来ました。その中のいくつかは流会派というよりは何ら個性もないことからむしろ屋号でした。これら大正琴団体の多くの競争は団体を強くし、競争が市場の成長をもたらしました。